彼方物語~ザイタク医を目指して~ 第6話 拘束とツバ

縛られていたのは、彼女か?それとも笑吉か?

縛られてる者同士の罵り合い。それを冷ややかにみる視線。

奴隷同士に取っ組み合いをさせ、高みの見物をしているような空間。

人間の尊厳はそこには全くと言っていいほどなかった。

縛られている両者。それを眺める医療者たち。尊厳などまったくなかった。

彼女が笑吉の顔に吐いたツバの冷たさは、今も思い出す。そして、その時の冷酷な空間も。

 

彼女は、70歳。糖尿病があり、タバコも吸っていた。ある日胸痛が出現し、救急車で、大学病院に。胸部大動脈解離と診断を受け、緊急開胸手術。糖尿病の持病や喫煙歴が、体の血管を蝕んでいた。手術は12時間以上の長時間に及んだ。術後1週間は人工呼吸器につながれ、生死をさまよった。その後、人工呼吸器は外れ、自分の肺で、呼吸が可能となった、が、残念なことに、手術の時に心臓に縫い込んだ人工血管に感染徴候が、、、、手術時間が長く、また、持病や喫煙によって免疫能力が低下していた為だ。術後1週間目から、40度以上の高熱が出始め、彼女は、意識朦朧となり、ずっと悪夢をみているようにうなされ、時には叫び声を上げ、体中に入っている点滴や創部からの膿を出す管を、引き抜こうと暴れた。それは、ICUせん妄と言われる状態だった。

 

「笑吉くん、ちゃんと勉強してる?ICUせん妄、勉強してきた?今日、みせてあげるよ」

ニヤニヤしながら、先輩医師は、笑吉に話しかけてきた。いつもなら、ナースステーションの端で、ずっとカルテを書いていて、おまえなんかに教えることはなにもないよ、勝手にみて行けば、みたいな冷たい先輩医師が、今日は違っていた。いつも冷たい先輩医師が、面白そうな余興でも始まるのを、期待したニヤケ顔だった。

 

ICU(集中治療室)に入ると、待ってましたとばかりに、3人の先輩医師たち。どの顔も、これから始まる余興を今か今かと、けしかけるような感じ。瞬間的に、アカン、ヤバいかも、と思ったが、もう遅かった。笑吉は、彼女のベッドサイドへ押し出された。

 

 

彼女がギロッとした目で、こちらをみる。

「なんや、おまえーー。外さんか、コラァ。なめとんか、ボケ、誰やオマエは?」

「どうされました?痛いところありますか?」

「しばくぞ、オマエ、はよ外せや、この紐。殺す気か?」

「大丈夫ですよ。大丈夫です」

「なにがじゃ?、しばって殺す気やろ、ふざけんな!」

 

 

その瞬間、顔と目と鼻が、冷たくなった。一瞬、何が起こったのか、わからなかった。

 

手を、その冷たい物質にもっていった。

 

ネチョ、、、、ネチョ、、、、 彼女が吐いたツバだった。

彼女の魂そのものだったのかもしれない。

 

 

先輩たちはニヤニヤしていた。

何かわからないが悔しさがこみ上げた。

笑吉も、彼女と同じように爆発した。

 

「ふざけんな、おばはん。ツバなんか顔にかけやがって」

 

 

ニヤニヤ笑いながら先輩医師3人に取り押さえられ、ICUの外に追いだされた。笑吉は呆然としていた。ICUの中から、笑う3人の声。

 

笑吉はICUの外で、どうしていいかわからぬまま立ち尽くしていた。

 

そこへ、こんなタイミングで、なぜだか、わからないけど、3人から報告を受けた助教授がやってきて、笑吉に言った。

「医師は常に冷静でないと、特に外科医はね。君はそんな資格はないね。始末書提出しないさい。それから、ちゃんと勉強もしといてね、ICUせん妄についてレポート用紙10枚書いてきて」

 

悔しかった。苦しかった。辛かった。心で泣いた。ずっとずっとずっとずっと泣いた。

彼女に対する申し訳無さも、こみ上げてきて、全部全部痛かった。

 

今、笑吉は思う。

彼女には、本当に申し訳ないことをした。

縛ることは罪だ。どんな理由があっても、拘束はいけない。

申し訳ないことをした。縛られている彼女を守れなかった。相手が先輩であっても。笑吉自身が弱かった。知識も経験もなかった。

 

彼女は、ICUで、人生を終えたのは、その後2週間後だった。

本当に申し訳ないし、謝っても、謝っても、決して、許されることはない。

 

彼女のツバは、今でも思い出す。

 

決して縛ってはいけない。拘束はいけない。そして、そんな社会の問題に対し、医師なら強く戦っていかなくてはいけない。

 

 

 

たぶん笑吉もその時、古い医局制度(奴隷制度)という縛りにあっていたのだろう。

あのツバの日、研修医の笑吉は、そんな縛りのような医局制度とも戦わなくてはいけないと、感じ始めていたようだ。