「ありがと」

彼は、手で大丈夫だってしながら、

小さい声で、でも目を見開いて、

「ありがと」と言って、目を瞑られた。

 

 

59の肺がんの彼は、定年まであと少し。

この半年、必死に在宅ワークを続け、

その仕事をやり遂げたい。

いや、やり遂げたかった。

それを悟った彼は、静かにベッドで、その時を待つ。

 

そこに必要なのは、緩和でもリハビリでもない。

彼の想いに、少しでも近づくこと。

 

正直、医者の僕が一番無力を感じる時だ。

 

 

 

少しの点滴を希望され、少しの点滴を週3回行う。

 

緩和のお薬や、食事のとり方の説明よりも、

彼が望む、何かを感じ取り、

僕自身が出来得る限り近づく努力をする。

しかし、それでも、、、、

 

診察の終わりにおっしゃられた、

小さくも力強い「ありがと」には、

大切な何かがあるように思った。

 

家を出てマンションの階段を降りながら、

彼の人生の最期が穏やかであるよう祈った。

 

 

 

 

マンションから空を見上げると飛行機雲。

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