先日、
胃がんのおばあさんの旅立ちがあった。
徐々に経口摂取も出来なくなり、
いよいよの時期になってきた。
訪問入浴で入浴をされたり、
訪問看護で車椅子座位にて庭を見たり、
少量のお茶の経口摂取をしたり、
大好きな孫の笑顔の訪問が何度となくあったり、
その時の準備は、何もかも順調であった。
お母さんの最期をお家で、という思いで、
娘さんは、お仕事もお休みされ、
しっかりお見送りの準備も整っていた。
あえて言葉にするなら、
人生会議も日々繰り返してきた。
いよいよが迫った時、娘さんがこうおっしゃった。
「センセ、点滴1本くらいするのは、駄目でしょうか?」
その点滴の効果については、
他の医師も、訪問看護師も、
繰り返し説明し、ご理解もされていた。
もちろん、ご希望があったので、
柔軟に対応し、点滴は行った。
その2日後、天国へ旅立たれた。
寝顔がとても優しく笑っているおばあさんに、
医学的に点滴が必要であったかどうか、
結局わからずじまいとなってしまった。
ザイタク的には必要であったのかも、、、と思う。
意味のない点滴か、意味のある点滴か、
それを決められるほど
彼女の人生のすべてを、
ボクは理解できていない。
それでも医者は医学的な必要性を、
判断しなければいけない。
それが唯一、ザイタクにおいて、
任された仕事なのだから。
判断を放棄したボクは、
医者としては無責任だな、、、、、と、
看取り帰りの車中で思って、
あんまり言葉が出なかった。
ふと、師匠さくらい先生の、
『コラム 800時の処方箋 ~藁はつかんでも~』
が思い浮かんだ。
良かったら読んで下さい。
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